髙橋洋有「熱波」
この度は大賞に選んでいただき、ありがとうございました。
私はずっと脚本を書いていたのですが、なかなかコンクールで受賞するには及ばず、最近になって小説を書いてみようと思い立ち、今回応募させていただきました。
私にとって初めての受賞になりますので、とても励みになります。今後も自分なりに様々な作品を書いていきたいと思っていますので、応援よろしくお願いします。
ありがとうございました。
熱いだけだと思っていた。だけど違った。そこには優しさがあった。ぬくもりがあったのだ。
私はサウナが嫌いだった。小学生の頃、よく父親に連れられ、近所のスーパー銭湯に行った。そこで父は必ずサウナに入る。私も一緒に入ったことがあるが、その熱さたるや耐え難いものがあった。すぐに私はサウナから出た。私は扉の窓から中の様子を窺う。汗をかいた全裸の男たちがひな壇に座ってじっと熱さに耐えていた。地獄絵図である。二度とサウナに入ることはないだろうとそのとき私は思った。
私の勤めるハローワークの雇用保険給付課は、新型コロナウイルスの感染拡大により、職を失った人たちで溢れ返っていた。溢れ返った受給者は待合席に座り切れないほど集まり、連日私たち職員は、彼らの冷めた視線に気付かぬよう、淡々と職務を遂行していた。
「ここに名前を書いてくださいね」
「あ、すいません」
自分で記入して提出する失業認定申告書に名前すら書かない受給者。それで金がもらえると思っているのか。私はうんざりしていた。
「何で払われないんですか」
「給付制限期間中だからです」
「今日もらえないと、家賃払えないんですけど」
「そう言われましても、制度として決まってますので」
二十代前半の若い金髪の男性受給者は机を強く叩くと、私を睨んで去って行った。
私はとても疲れていた。毎日の残業。言葉の通じない受給者。自分の話ばかりする妻。本当に一人になりたかった。
そんなとき、私の目にふっとサウナの看板が映った。週末。金曜日の午後九時だった。そのサウナは私の住む笹塚駅に程近い、甲州街道沿いにある男性専用の施設だ。この近所のタウン誌に載っているのを見たことがある。テレビの情報番組でも取り上げられ、特に芸のない芸能人である司会者が、サウナブームが今来ていることを、声高に伝えていた。こんな奴が高いギャラをもらっているのかと思うとまた腹が立つ。
サウナブーム、馬鹿らしい、と鼻で笑い、サウナが入ったビルの前を通り過ぎようとした。すると、見覚えのある若い男が、ビルのエレベーターが降りて来るのを待っているのが見えた。あの男だ。間違いない。あの金髪。今日の昼間、失業手当が出ないと家賃が払えないと私の机を叩いた若い受給者である。家賃を払う金はなくても、サウナに来る金はあるのか。私は無性に腹が立った。こんな奴のために働いているのかと思うと、自分の仕事にも嫌気がさしてきた。エレベーターの扉が開き、男は乗り込んだ。扉が閉まる。私はその場を一歩も動くことができなかった。あの男に一言言ってやりたい。バッグからスマホを取り出すと、妻に電話をかけた。
「今日はかなり遅くなるから先寝てて。ご飯は外で食べる」
私は電話を切ると、エレベーターのボタンを押した。
天空のアジト・マルシンスパ。ガラスの扉越しに店の中を覗いてみたが、男の姿は見当たらなかった。もう受付を済ませたのだろうか。扉を開け、店の中へと入る。受付には若い女性が立っていた。
「いらっしゃいませ。どちらのコースにしますか?」
受付のカウンターにサウナのコース表が置かれている。私は宿泊コースを選択した。これから家に帰って、妻の終わりなき話を聞く気力は残されていなかった。私の妻は毎日一方的に話をする。私が聞いていないことにも気づかずに。
「今若い男の客入って来ませんでしたか?」
「え?」
「細くて、ほら金髪の」
「いや、そういうお客さんは来てませんけど」
おかしい。このビルにはこのスパしか入っていなかった。来ていないはずがないのである。
館内着とタオルの入ったバッグを受け取り、ロッカールームへ移動する。スーツを脱ぎ、館内着に着替えた。ロッカーの鍵の使用率からすると、かなりの客が来ているようだった。
まずはひと通り見て回ってみよう。と言っても館内はそんなに広くなかった。二つのフロアで構成された構造。一階には食堂と休憩室があった。奥の厨房からはフライパンで何かを炒める音が聞こえる。ビールを片手にテレビのバラエティ番組を観ながら、ひとり笑い声を上げているおじさん。私の嫌いな例の芸のない芸能人がまた出演していた。何故この男がこんなにもテレビ局に起用されているのか全く理解できない。食堂の壁にはこの施設を利用した芸能人のサイン色紙が飾られている。多くはプロ野球選手のサインであるが、その横に並べられたホリエモンのサインがどこか浮いていた。
休憩室にはリクライニングチェアに寝そべりながら、黙々と漫画本を読んでいる若者。壁際には大きな本棚が並べられており、大量の漫画本が押し込められている。かなり古い、多くの人間に読み込まれたであろう漫画たち。ゴルゴ13に三国志、グラップラー刃牙など、男性専用施設らしく男が好きそうな漫画がずらりと並んでいた。
食堂の席も休憩室の席もほとんど埋まっていたが例の金髪の男はいなかった。私は階段を上り、二階のサウナへと向かった。
二階には仮眠室とサウナがあった。ベランダがあり、外気浴が出来るようになっている。京王線が一日の疲労を溜め込んだ人々を乗せ、暗闇の線路を走っていた。脱衣所の棚には館内着、タオル、イオンウォーター。ほとんどの棚に誰かの荷物が詰め込まれている。壁にはサウナの楽しみ方と称するポスターが貼られていた。サウナ、水風呂、外気浴。サウナが好きだった父の姿を思い出しながら私は裸になり、隅の空いている棚に自分の荷物を置き、フェイスタオルを持って、浴室の引き戸を開けようとした。すると反対側から引き戸は開けられ、汗をかき、体をまっ赤にした大柄の男が姿を現わした。男はウォーターサーバーの水を紙コップに注ぎ、うまそうに何杯も水を飲んだ。男と目が合い、私は目を逸らして引き戸を開けた。
浴室内には湯船と水風呂が一つずつ。垢すりスペース。洗い場は四つと狭い。デッキチェアが窓に向かって二つ並び、その側にサウナがある。若い二人組や初老の男。男、男、男。浴室内は裸の男で溢れ返っていた。何が楽しくてこんな狭い所に集まっているのだろうと私は呆れた。しかもコロナ禍の今にである。密、密、密。都知事が見たら卒倒するだろう。こんなに人がいるのに、金髪の男は見当たらなかった。あれは幻だったのか。極度のストレスが私に幻覚を見せたのか。私は洗い場で体を洗いながら、昼間の金髪のことを思い出した。二十代前半の体の線の細い男。ジャニーズ系の女に好かれそうなその顔。私に敵意剥き出しのその目。あいつはあのサウナの中にいるのだろうか。二度と入ることはないだろうと思っていたサウナ。こんな形で再び入ることになるとは思わなかった。私は軽くタオルで身体を拭くと、サウナに入った。
サウナストーブを中心に、八人が座るスペースがある。一つの席を残し、ほぼ満員のサウナ内。私は熱気に耐える男たちの顔を眺め、金髪の男を探したが、やはりそこにもいなかった。
「そこまだ空いてるんでよかったら座って下さい」
「あ、はい」
急に後ろから促されて、思わずはいと答えてしまった。なんとなく後に引けなくなり、空いていた最後のスペースに座る。
「あ」
私は驚いた。私に着席を促した男が、探していた金髪の男だったのである。頭にタオルを巻いているが間違いない。あの男であった。
「それでは只今より、本日最後のアウフグースを始めます」
「待ってました」私の隣に座っていた初老の男が叫び、一斉に拍手する男たち。何なんだこの熱気は。私には全く理解できない。金髪男はここでバイトをしていたのか。というか、そのアウフグースって何なんだ。
金髪の男は持って来た桶の水を杓子で掬い、サウナストーブ内の石に水をかけた。ジューっと体に染み渡る音がする。この水はアロマ水であり、その効能は云々と男は説明を始めた。一気にサウナ内に蒸気が充満し、体感温度が高まる。熱い、が気持ちいい。何だ、この感覚は。サウナって、こんな感じだっただろうか。苦痛でしかないと思っていたのに。
「それでは熱を拡散させていきます」
金髪の男はタオルをぶんぶん振り回し始めた。サウナ内の温度がどんどん高まっていく。熱い、熱過ぎる。しかし、ここでサウナを出る訳にはいかなかった。私にも男のプライドというものがあるのだ。ここで席を立っては今無心にタオルを振り回している金髪男に負けたことになるような気がしたのだ。私は金髪男から目を離さなかった。
「それではお一人様ずつ仰がせていただきます」
金髪男はおもむろに足元に置いてあった大きな赤い団扇を手にした。その団扇の中央には力強い筆跡で『祭』と書いてある。そんな団扇でこの熱気の中、仰ごうというのか。どうかしている。殺す気か。
「それではいきます」
「お願いします」
下の段の一番隅に座った男が、両手を上げ、風を受け止める姿勢を取った。その覚悟を決めた姿は、これから敵と相まみえようとする格闘家の姿にも見えた。金髪男は力を込めて団扇で熱風を送る。その余波が斜め上に座る私のところまで届いて来た。これは熱い。こんな熱波を直接食らってはひとたまりもない。しかし、ここで逃げる訳にはいかない。これは金髪男と私の真剣勝負なのである。私は金髪男を睨みつけながら自分の順番が来るのを待った。
一人につき十回ずつ次々と仰いでいく金髪男の顔は汗をかき、真っ赤になっていた。それはそうだろう。この熱いサウナの中で、Tシャツにハーフパンツを着て、大きな団扇を振り回しているのだ。このサウナ内で一番熱さを感じているのは、この金髪男に違いない。
ついに私の順番が回って来た。私も先程の男に倣い、両手を高く上げて目を瞑る。いつでも来いと言う気持ちである。
「行きます」
金髪男は団扇で私を仰ぎ始めた。とてつもなく熱い風が送られてくる。皮膚の毛穴から汗が滲み出て来るのがわかる。熱い、熱い、熱い。だけど気持ちいい。気持ちいい? 馬鹿な。気持ちいい訳ないだろう。熱さで気が狂ったか。ぶんと最後の熱波が送られ、アウフグースは終了した。
「これで本日のアウフグースは終了させて頂きます。ありがとうございました」
一礼する金髪男に拍手を送る全裸の男たち。私も自然と彼に拍手を送っていた。
熱波を浴びた男たちはサウナを出ると、水風呂の水を桶で掬って浴び、続々と水風呂へと入って行く。私もその例に倣い、水風呂に浸かった。やや深めのその水風呂の水は、思った通りに冷たかった。しかし、自分の体温の発散により徐々にできた熱の羽衣により体がコーティングされ、心地良い冷たさに変わった。落ち着く。水風呂の表面を揺らめく水は、蛍光灯の光を浴びてきらきら輝いていた。
私は水風呂を出ると、窓辺に並んだデッキチェアに寝転び、目を瞑った。全身に血液が巡り、ジーンと身体が揺らめく。多幸感。ディープリラックス。
私はあんなに嫌いだったサウナで、完全に整った。
私が浴室を出ようとすると、汗まみれの全裸の金髪男が入って来て目が合った。そうだ。私はこの男に一言言ってやろうと思い、このサウナにやって来たのだ。だがしかし……。
「ハローワークの人ですよね?」
「え? あ、はい」
「今日は何かすいませんでした。急にキレちゃって」
「あ、いや」
「俺の風どうでした?」
「最高だったよ」
「あざっす。じゃ、また来てください」
金髪男は爽やかな笑顔で洗い場の椅子に座ると、シャワーを浴び始めた。私はその姿を微笑ましく見詰め、浴室を後にした。
私は食堂で生ビールを飲みながら笹塚チャーシューなる名物料理を食べ、予定を変更して家に帰ることに決めた。今日の感動を妻に伝えたかったのだ。いつも聞き役に回っているのだから、たまには喋りたいことを喋っても罰は当たらないだろう。
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